日々

灯りを一つ、消してみる|京都五山送り火

夜、仕事を終えてリビングに戻ると、部屋の照明はいつも全部つけたままだった。天井の主照明も、キッチンの手元灯も、玄関の小さな豆電球まで。暗いと不安になる、というよりは、明るいのが当たり前すぎて、消すという選択肢そのものを持っていなかったのだと思う。

お盆が近づくと、実家のことをよく思い出す。子どもの頃、祖母が縁側で迎え火を焚いていた光景。あの小さな炎は、暗闇の中でこそ意味を持っていた。今の私の部屋には、そんな小さな灯りが立つ余地がない。すべてが均一に明るくて、何かを特別に照らす、ということができないのだ。

そんなことを考えていたときに、京都五山送り火の紹介文にある一文を見つけた。

五山送り火の情緒を守るために、ネオン灯、屋外灯、広告灯などの一時消灯について、ご協力をお願いします。

——京都市観光協会「京都五山送り火『どんな行事?』」より

京都市観光協会「京都五山送り火『どんな行事?』」(京都観光Navi)

情緒を守るために、灯りを消す。この言葉が、しばらく頭から離れなかった。普通、何かを大切にしたいときは、そこに何かを足そうとする。もっと照明を、もっと装飾を、もっと言葉を。けれど五山送り火は逆で、街の灯りを一時間だけ引くことで、大文字の炎を際立たせようとしている。足し算ではなく引き算で、見せたいものを見せる。

これは照明の話だけではないのだろう。私は暮らしの中で、何かを大事にしたいと思うたびに、つい情報を増やし、予定を詰め、部屋にものを置いてしまう。余白というと、何もない状態、手つかずの空白のように思っていたけれど、そうではないのかもしれない。余白は、何かを照らすために意図的に引かれた線なのだ。京都の街がネオンを一時間落とすように、こちらが一つ何かを手放して初めて、向こう側にある小さな炎が見えてくる。

大文字では、護摩木に自分の名前や病名を書いて焚くと、その病が癒えるという信仰があるという。山の上で燃える一文字は、誰かの願いそのものでもある。街の灯りが消えるからこそ、その願いの形がくっきりと浮かび上がる。明るさを競う夜には、決して見えないものだ。

八月十六日の夜、私は京都にはいない。それでも、午後八時前後の一時間だけ、自分の部屋の灯りを一つ落としてみようと思う。主照明を消して、小さなスタンドの灯りだけにする。それだけで、部屋の輪郭が変わる気がする。何を照らしたいのか、何を大事にしたいのか。灯りを引いてみて、初めてわかることがあるような気がしている。

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