昼と夜、ふたつの顔を持つ庭|縮景園 光の庭園

朝、家の近くの公園を通り過ぎるとき、同じ道でも光の角度で表情が違って見える瞬間がある。真昼の強い光の下では輪郭ばかりがはっきりして、木々はただの緑の塊に見える。けれど夕方、光が斜めに差し込む頃になると、同じ木が急に陰影を持ち始め、知らなかった形を教えてくれるように思える。

そういう時間帯ごとの違いを、なんとなく美しいと感じてはいたけれど、深く考えたことはなかった。同じ場所は同じ場所で、行けば同じものが見えると思い込んでいたのだと思う。景色というのは光の量ではなく、その場所そのものが持つ性質だと当時は思っていた。

けれど広島県立美術館・縮景園で開かれている「光の庭園 ひろしまアート&ガーデンナイト」の案内文を読んで、その思い込みが少しほどけた。

昼間とは異なる表情を見せる、夏の夜の縮景園をゆっくりとお楽しみください。

——広島県公式サイトより
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/40/light-garden2026.html

「異なる表情」という言葉が引っかかった。同じ庭が、同じ木や池や石組みが、時間帯によって別の顔を見せる。それは庭が変化しているのではなく、光と影の配分が変わることで、こちらの見え方が変わるということなのだろう。庭そのものは1620年に上田宗箇が作庭してから、大きくは変わっていないはずだ。変わるのはいつも、こちらの側の目である。光の当て方ひとつで、見慣れたものが見慣れないものに変わる。庭はそのことを、静かに教えてくれる場所なのだと思う。同じ庭を昼に見た人と夜に見た人とでは、同じ場所の話をしているようで、実はまったく違う記憶を持ち帰っているのかもしれない。

清風館のあたりを音と光が包む演出があると聞くと、静けさというものは無音のことではなく、むしろ何かに包まれている状態を指すのかもしれない、とも思う。触れると花火が映し出されるという参加型の仕掛けも、庭という動かないものに、こちらの手の動きが応える仕組みだ。庭を見るだけでなく、庭に応えてもらう。そんな関係の作り方があるのだと知った。六角形の提灯を自分の手で組み立てるという時間も、光を受け取るだけでなく、光をつくる側に回る経験として面白そうだと思う。

このライトアップは、今年はこの回で最後になるようだ。行けたら、昼間に訪れたことのある場所を、夜にもう一度歩いてみたい。同じ道を、違う光の中で歩くこと。それだけで、見慣れたはずのものが少し新しく見えてくるのかもしれない。会期はもう長くない。それでも無理に急ぐのではなく、行けるときに行けばいいと思っている。そういう小さな寄り道を、暮らしの中に増やしていきたい。

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