お盆が終わって、家のなかがまた静かになった。数日のあいだ、どこか改まっていた空気が、ゆっくりと日常の側へ戻っていく。この戻っていく途中の時間が、私は嫌いではない。
今朝、窓を開けたとき、空気がわずかに違う気がした。温度計を見ればまだ夏の数字なのに、肌に触れるものだけが先に変わっている。何が違うのかを言葉にできないまま、しばらく窓辺に立っていた。
暦をひらくと、今日から七十二候の「蒙霧升降(ふかききりまとう)」に入るという。立秋の末候にあたり、朝晩の空気が冷えはじめて、水辺や野に深い霧が立ちこめる頃とされる。まだ暑さの残るこの時期に「霧」の一文字を置いた昔の人は、数字にならない変わり目を、ちゃんと感じ取っていたのだと思う。
霧は、万葉の頃からすでに秋の合図だった。
秋されば霧立ちわたる天の川石並置かば継ぎて見むかも
——『万葉集』巻二十・四三一〇(大伴家持)
天平勝宝六年の七夕に詠まれた歌だという。秋になると霧が立ちわたる天の川。その浅瀬に石を並べて橋にできたなら、年に一度と言わず、続けて逢えるだろうか——歌のなかで、霧は二人を隔てる側に立っている。
けれど私は「秋されば」という初句のほうに立ち止まる。霧が立つから、秋が来たとわかる。霧は視界を奪うものなのに、その白さによってしか見えてこないものがある。季節の変わり目は、そのひとつだと思う。
霧のなかでは、遠くのものから順に消えていく。輪郭を失った景色は心細いようでいて、そのぶん、近くにあるものだけが濃く残る。見えるものが減ると、見えているものの解像度は上がる。霧が教えてくれるのは、隠すことと示すことが裏表だということかもしれない。
夏と秋のあいだに、はっきりした線は引かれていない。境目は一本の線ではなく、霧のように厚みを持った時間で、私たちは何日もかけてそのなかを通り抜けていく。まだ夏の顔をした日と、ふいに秋の気配のする朝が、しばらく入り混じる。どちらでもない時間を、どちらでもないまま味わえたら、季節はすこし長くなる。
このサイトに「あわい」という名前を選んだことを、こういう朝に思い出す。ふたつのものの境目ではなく、どちらでもある時間のこと。霧は、そのあわいが目に見えるかたちをとったものかもしれない。
今週は、朝の窓を開ける時間をすこし長くしてみる。霧の立つような土地ではないけれど、空気の湿りや光の角度は、ここでも毎朝すこしずつ動いている。秋の始まりをカレンダーで知るのではなく、肌でひとつ拾えたら、それでじゅうぶんだと思う。
七十二候「蒙霧升降」:立秋の末候(第三十九候)。2026年は8月17日から22日ごろ。このあと暦は処暑へと続く。