日々

四十分、ひとつだけ見る|工芸トークオンライン(国立工芸館)

金沢は遠い、と思ってはページを閉じてきた。国立工芸館の展示情報を開いては、行けないから、と最後まで読まずに閉じる。それを何度も繰り返している。

以前、大きな展覧会に足を運んだとき、会場の広さに気圧されて、気づけば何十点もの前を早足で通り過ぎていた。帰りの電車で、今日見たものを一つも思い出せないことに気づいた。それでも、実物の前に立つことだけが鑑賞だと思っていた。予定を立てて、移動して、会場をまわる。それができない限り、美しいものに触れたことにはならない。そう自分に線を引いていたのだと思う。

その線が少しほどけたのは、国立工芸館の「工芸トークオンライン」というプログラムを知ったときだった。高精細画像を見ながら、参加者どうしの対話を通して鑑賞を深めていく。公式サイトの「よくあるご質問」に、こんな一文があった。

高精細画像によって肉眼では追いつかないくらいに拡大したり、会場ではできないライティングで見える姿はまた格別です。

——国立工芸館「【工芸トークオンライン】2026年8月」よくあるご質問より

国立工芸館「【工芸トークオンライン】2026年8月」

肉眼では追いつかない、という言い方に立ち止まった。画面越しは実物の代わりの、劣ったものだと思っていた。けれど拡大された釉薬の面や、会場では当てられない光の下の姿は、そこでしか見られないものでもある。近づけないから諦めるのではなく、別の近づき方がある。そう考えたことが、これまで一度もなかった。

もうひとつ、心が動いたことがある。このプログラムで見るのは1点だけで、しかもその1点は当日まで知らされず、こちらから選ぶこともできない。40分から50分を、たった一つの作品に使う。選べないと聞いて、最初は少し身構えた。けれど思い返せば、何十点も見て回ったあの日の私も、実のところ何ひとつ選び取ってはいなかった。数を見ることと、見ることは、同じではなかった。

花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。

——吉田兼好『徒然草』第百三十七段より

満ちているものを、隅々まで見渡せることが完成形だと思っていた。全部を見たかどうかで、その日を採点していた。1点に絞られるのは不自由さのようでいて、その日の出会いに委ねるための余白なのかもしれない。何が来るかわからないまま座って、来たものを長く見る。それは、私が暮らしの中でいちばんできていないことだった。

家にある器を、ひとつ選んでみようと思う。棚の奥にしまったまま、手に取ることも眺めることもないまま何年も経ったものがある。時間を決めて、それだけを見る。金沢は遠いままでも、ひとつのものに近づく時間を、この部屋でつくることはできる。

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