上質と、好きなもの——分けていたのは私だった|ポケモン×工芸展(広島県立美術館)

余白のある暮らしを目指すようになってから、いつのまにか避けているものがあった。かわいいもの、キャラクターのついたもの。マグカップも、文房具も、無地か、せいぜい静かな柄のものを選ぶようになった。それが「整った暮らし」だと思っていたし、実際そうやって選んだ部屋は気に入っている。

ただ、時々ふと思う。子どもの頃に本気で夢中になったものたちを、私は「卒業」という言葉で片づけてしまっただけではないかと。上質なものを選ぶことと、好きなものを選ぶこと。この二つを、いつからか別の棚に置くようになっていた。

そんな中で目に留まったのが、広島県立美術館で開催中の「ポケモン×工芸展―美とわざの大発見―」だった。人間国宝から若手まで、20名の工芸作家がポケモンをテーマに手を尽くした約100点。桑田卓郎の《カップ(ピカチュウ)》、桝本佳子の《リザードン/信楽壷》、田口義明の蒔絵棗、須藤玲子のテキスタイル——名前を追うだけで、これは片手間の仕事ではないとわかる。

企画趣旨のページを読んで、心が動いた一文があった。

ポケモンと工芸、正面切って出会わせたらどんな化学反応が起きるだろう。

——ポケモン×工芸展 特設ウェブサイト「なぜ ポケモン×工芸?」より https://kogei.pokemon.co.jp/

正面切って、という言葉が残った。斜に構えず、照れず、本気で向き合う。そこにあるのは「子ども向けのキャラクターを工芸という高尚な技法で仕立て直す」という上下関係ではなく、二つのものを対等に出会わせるという態度だった。

そこで気づく。私が無意識にやっていたのは、対象に上下をつけることだったのではないか。工芸は上質、キャラクターものは幼い。無地を選び、柄物を避ける。そうやって静かに線を引いて、その線の内側だけを「暮らし」に置くことが美しいと思っていた。

でも技というものは、本来、対象を選ばない。轆轤を回す手も、蒔絵の筆も、テキスタイルの織り目も、それが何を表すかではなく、どう向き合うかにこそ宿る。人間国宝の技法で竜の鱗の質感を写しとる作家がいるということは、その作家にとってその題材が、他のどんなものとも変わらず本気に値したということだ。好きという気持ちを本気で扱えば、それはもう十分に上質になりうる。

広島県立美術館の章解説にも、こうあった。

工芸は生活のさまざまなシーンをより良く、美しく整え、活力を与えてくれるものです。

——広島県立美術館「ポケモン×工芸展―美とわざの大発見―」より https://www.hpam.jp/museum/exhibitions/pokemonandjapanesecraft/

活力を与える、という言葉が効いた。整えることと、活力を持つことは、実は別々の要素ではないのかもしれない。私は整えることばかりを優先して、活力の方を後回しにしてきたのかもしれない。

暮らしに何かを迎え入れるとき、これからは「上質かどうか」だけでなく「本気で好きかどうか」も、もう一つの物差しにしてみたい。無地の器の隣に、本当は好きだったものの気配を少しだけ置いてみる。それは雑然とすることではなく、むしろ自分に正直な余白の作り方なのだと思う。線を引き直すのは、いつからでもできる。

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