夕方、窓を開けたままにしていたら、ひぐらしが鳴いた。カナカナカナ、と遠くで。まだ日中は三十度を超えているのに、あの声が入ってくると、部屋の空気だけ先に秋になったような気がする。
暦の七十二候には「寒蝉鳴(ひぐらしなく)」という名の数日がある。夏の盛りに、夏の終わりの音を聞く候。昔はこの声が少し苦手だった。楽しい時間の途中で、終わりのほうから急かされているようで落ち着かなかった。
いまは、少し違う。終わるとわかっているものを、終わる前にちゃんと見ておく。そういう時間の使い方があるのだと、最近になって思うようになった。
そんなことを考えていた矢先に、東京国立近代美術館で開かれている展覧会の紹介文を読んで、手が止まった。
写真がデジタルに置き換わった今、その技法は今やまさに「絶滅が危惧される」ものと言えます。
——東京国立近代美術館「杉本博司 絶滅写真」より(展覧会ページ)
絶滅、という言葉を、生きものではなく技法に使う。その一語の強さに、しばらく引きずられた。
銀塩写真というのは、光を受けた銀のつぶが像になり、暗室のなかで時間をかけて定着していく技術のことだ。速くもないし、便利でもない。撮った瞬間に確かめることもできない。私の手のなかにあるスマートフォンは、その正反対のことを一秒でやってしまう。便利になったぶん、何かが静かにいなくなっている。
展覧会は三章立てで、最後の章のタイトルがそのまま「絶滅写真」だという。図録の目次には〈陰翳礼讃〉というシリーズ名も並んでいた。谷崎潤一郎のあの随筆から取られた名前だろう。
美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える。
——谷崎潤一郎『陰翳礼讃』より
明るくすること、速くすること、はっきりさせること。それらを進歩と呼んできた百年のあいだに、私たちは陰翳のほうを失った。杉本博司が見送ろうとしている「絶滅」は、たぶん銀塩写真だけの話ではない。暗さや遅さや、待つ時間そのもののことでもあるのだと思う。
だからといって、フィルムカメラを買いにいく気にはならなかった。そういう取り戻し方はきっと私には続かない。
かわりに、こう考えている。消えぎわのものを、消える前に一度ちゃんと見にいく。それだけを今年の夏の宿題にしよう、と。展覧会でもいいし、閉じる予定の店でもいい。実家にまだ残っている道具でもいい。惜しむより先に、見る。見送るというのは、たぶんそういう順番のことだ。
ひぐらしの声も、いつまでも続くわけではない。今年は、窓を閉めずに聞いていようと思う。
杉本博司 絶滅写真
会期:2026年6月16日(火)〜9月13日(日)
会場:東京国立近代美術館 1F企画展ギャラリー(東京・竹橋)
休館日:月曜日
開館時間:10:00〜17:00(金・土は20:00まで/入館は閉館30分前まで)
観覧料:一般2,300円、大学生1,200円、高校生700円(中学生以下無料)
主催:東京国立近代美術館、日本経済新聞社